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僕の中には沢山の原罪が共存している。中でも特に心に残るのは、母とのある日の会話だ。
それは病室の母を見舞いに行ったときのこと。
窓からは、裏の五月山という小高い山の斜面がすぐそこに見渡せる、気持ちの良い個室だった。カーテンを開けて、新しい空気を入れると、母はこれにサイン欲しいの、とおもむろに引き出しから一片の紙を渡してきた。それは戦争に反対するという趣旨のものだった。
僕は勿論戦争には反対だが、その頃本当にそれが起こったときに、全てを捨てて、家族を守る行動をせず、闇雲に反対を唱えるのはおかしいと思っていた。でも、あの時、母の願いを拒否する必要がいったいどこにあったのか。
戦争で父を亡くし、未亡人となった母親の手一つで育てられた母は、ただただ純粋に戦争の無い世の中を夢見ていたに違いない。そして、病室の中で、人生を振り返るたっぷりとした時間の中で、息子にもそれを伝えたかったのだと思う。思えば僕は、確かにその母を遺伝子として引継ぎ、その深い祈りは、長い年月の中で僕の中にもちゃんと根を張っている。
母は元来非常に明るい人で、よく喋る人だったが、決して自らの主張を押し付けるということをしない人だった。無論幼い頃怒られた記憶は何度かあるものの、理不尽な怒られ方をしたことはただの一度もなく、それは母の人生すべてにおいて徹底していた。華美なことは嫌い、ただ笑顔と感謝が、子供の見た裏表のない母だった。さらに言えば、人に与えることで安らぎを感じる人で、自らの願望であれが欲しいこれが欲しいといった事は、ついぞ聞いたことがない。
そんな母からの、願いだった。
例え母でなくても、親友であっても、いや赤の他人であったとしても、それは取ってはならない行動だったのかもしれない。だからこそ、僕の中にこれだけ大きな負の感情として残る。
あごめんね、といった顔で、母は直ぐに話題を変えた。そして、僕の中には拭い去れないわだかまりが残った。
今これを書きながら漸く思う。祈りと理屈は別物なのだ。それは時に同化してより強い理想となり、しかしまた時に反発する。祈りは大地であり、理屈は現実である。母の遺伝子は、やっと今、僕にそれを言葉を介せずに理解させる。