山姥の憂鬱:蛙声小片集-
ショートショート・掌編・フラッシュストーリー・エッセイ

蛙声ASEI小片集

カテゴリ:02以

山姥の憂鬱

更新日:2025.12.02

文字数:1440字

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山姥は、人気《ひとけ》のない山里の一軒家で、軒先に腰を下ろしながら傍らの本を手に取り、最初の頁を捲る。

『山姥』 別名鬼婆とも呼ぶ。山に棲む老婆の妖怪で、道に迷った旅人に食事を与えたり宿を貸したりした後に、夜になるとその旅人を襲い食らう。

我が家のバイブルである。客間にも客人が手に取れるよう、常備してある。小さい頃から何度も母が読み聞かせ、大きくなってからも時折こうして読み返す。

その山姥には、3つの憂鬱があった。

1つは最近なかなか客が来ないこと。いつでも包丁は研いで、客が来る準備は万端だが、肝心の客が最近はめっきり来ない。深夜に包丁を研いでみても、

シャーシャーシャー

不気味な音だけが、誰もいない静けさの中に響き渡るのみ。こうなったら仕方がない。客が来ないならせっかくのこの包丁で、たぬきでもムジナでも調理して食べてやろうか。

もう一つは自分の名前にまつわること。苗字が山姥(やまうば)なのは仕方がないとして、名前がいけない。カリン。やまうば かりん。あまりにも可愛い名前だ。あのバカ親、どんな思いでこんな名前をつけたのか。ドラマの見過ぎじゃないのか。父は山姥鬼人、母は山姥闇。いかにもふさわしい名前だ。このアンバランスな名前のおかげで、私がますます人目を避けるようになったのは言うまでもない。

最後の悩みは娘だ。実はその娘の命名がまだ済んでいない。山姥とは言っても、出生後14日以内に名前を届けるという社会のルールは守らないと、最低限の保証が受けられなくなる。今のように客がめっきり来なくなった場合は、死活問題だ。

この子の祖父母の時代の名前は、苗字には合っているもののあまりに時代遅れ的でもある。そんな名前を付けて学校に行けば、きっとこの子は虐められるだろう。社会に反感を持ったまま育つのは良くない。あくまで山姥家の伝統は、その気高い心にあるのであって、人様を恨みに思っているわけではない。時折迷い子のような客人が来た時には、暖かく歓待し、そしてその客人が寝入った時に、静かに包丁を解く儀式をする。ふと夜中に目覚めてその音を聞きつけた客人は、驚き、恐れ、慌てて逃げ出そうとするだろう。しかしそうはいかない。冬のこの時期あたりは一面の雪で終われ、何一つ目印もない。だからこそ迷い込んできたのだ。

この子の父親も、実は通りすがりの客人だった。あの晩、月も風雪にかすみ、しんしんと凍えるような宵の口に、やはり道に迷ってたどり着いた。しかしここに迷い込んだ宿命か。もはやここにはいない。

そうだ、父にちなんで、宵(よい)と名付けよう。これであればいじめられることもなく、山姥の名にも恥じない、立派な名前になるだろう。

そして、宵はとても美しい娘へと成長した。

非常に利口な子で、新しい知識を貪欲に吸収し、山姥家としては初の大学進学まで果たした。カリンの思いも引き継ぎ、家もその伝統と格式を守った。それだけでなく、あらゆるSNSやメディアを駆使して、新たな客をどんどんと呼び込んだ。

秘境 山姥温泉

旅行雑誌では、何度も訪れてみたい温泉1位を獲得し、深夜の、美しい山姥の包丁研ぎパフォーマンスは、今や誰もが体験してみたい有名イベントとなった。この情報化社会では、昔の様に、山姥に食べられるなどといった、間違った話が伝わることも無いだろう。名前が怖いだけで、昔から優しい一族なのである。

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